恩師と子どもと私
一緒に空手をしている中学生の子たちはA中学校とB中学校の子しかおらず、実は私の中学時代の恩師は、去年までそのA中におり、今年からB中にいる。
私は凝り性なところや執念深いところ、繊細なところから、元痔主(しかも同じ痔瘻)であるところまで恩師に似てしまったので、やることなすこと恩師に共通しているところがあり、以前A中学に仕事で伺い氏の姿をみたときには、一緒に空手をしている某女子の名前を出し「○○○○、元気ですか?」「……あぁ、空手かあ」というやり取りから始まる会話があった。恩師も恩師でB中学に着任して何か月もしないうちに、さる男子が「空手やってるんだろう? ××(私の名前)ってわかる?」と言われたそうだ。
中学生の、思春期の多感な時期に「学校に行くのが楽しみでたまらない日々」を過ごせたのはなぜだったんだろう? と今でも思う。
いま、小学5, 6年生や、中1から中3までの子たちと週に2回も3回も一緒にいると、否が応でも当時の自分と重なりあわせて彼ら彼女らを見、「自分なら当時どうだっただろう?」とか「自分ならどうするだろう?」と考える。もちろんハッキリとした答えは出ないのだけれども。
しかし、当時の自分と周囲にあったのは、紛れもなく《愛》そのものだったと言える。
見返りを求めず、ただ相手を信じた末の思い。そんなもの幻想じゃないかとか夢じゃないかとか思われるかもしれないけれど、そうする本人が愛だと思っているんだから、そういうことにしてほしい。人を思う気持ちや、人のために何かを行うことの大切さを、君らもいま教わっているその先生から私も学んだことに、胸を張って、誇りをもって生きていきたいと思う。
去年「○○は元気ですか?」と名前をあげた女子から相談を受けることがあった。中学2年生。きっと私の周りの人々は同じような気持ちだったんだろうなあと思い出しつつ、「先生ならどう答えるだろうか」と少なからず考えている自分がいる。きっと「やりたいんだったら、やればいいべや」とか言うんだろうなあ。私はどちらかというと「やってくれ? な、頼む」と言われたことのほうが多い気がするけれども。いずれにしても、そこには「何かあっても大丈夫」というような気持ちがあることに変わりがない。
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