ヒトの死とその報道についての雑感

著名人の自殺があるたびに、メディアは揃ってそのことを報道したがる。しかも、どういうわけか、情報の受け手が欲しいとも思ってもいないことまで、送り手は発信し続ける。このことに、何の意味があるというのか。

ヒトが母親の胎内に存在し始めたときから、生老病死の苦しみから逃れることはできない。生きて、老いて、病み、死してゆくその “四苦" に否応なしに出遇いながら、時に他社や己のそれを受容しつつも過ごしていかなければならないのが、我々ではないのか。ヒトの生命過程の終端ともいえる “死" について、人々が必ず遇わなければならない命の終わりと、その終わり方について、どこまで我々は情報のやり取りをしなければならないのだ。

悲しいことに今回もそうだった。メディアは一斉に著名人の自殺を取り上げ、騒ぎ、初報から半日も経たないうちに、故人と親交のあった人々の発言を紹介し、時に街の人々へのインタヴューまで報じはじめる。

けれども、メディアが何をどう騒ごうと、事実は「著名人Uが死んだ」というただそれだけである。人の死に誰が口を挟めるというのか。死因に善悪などあってたまるか。

表現の自由はどこまで保証されるのか。個人の生き様や死に様は、どこまでも表現して良いものなのだろうか。時に自死の報道は、精神疾患者の希死念慮を増悪ぞうあくさせる。我々はどこまでも弱い存在である。いわゆる健常者と呼ばれる人々であっても、何度も繰り返してNegativeな報道に繰り返し接していると、その精神状態は極めて不安定な状態となり得る。

老衰で死すこと、病で死すこと、事故で死すこと、自ら死すこと、等々……。何が善くて、何が悪いとか、どれが普通だとか、そんなことは生きている我々が勝手に選別したりレッテル付けしているだけであって、善悪も普通も存在しないのではなかろうか。