芸術以前……

芸術というのは何かを伝える手段でもある。絵画、工芸、書作、音楽、舞台などなど、その作品のすべては何らかの思いを伝えるものであり、何も伝わらなかったものには意味がないといっても過言でもない。……と、堂々と言える立場でもないのだけれど、自身、そう教わってきたのでそういうものだと思っている。

Facebookでは何年も前から書道関係のグループにお邪魔させてもらっている。まだまだ技量も経験も足らない私がそこにいるのは申し訳ない気もするのだけれど、あたたかく迎え入れてくださった。趣味で取り組む人から各種全国書道展に入選されている方々もおり、刺激は多い。

最近はいわゆる「ROM専」というか「見てるだけ」というか、もはや画面に流れてきたのを眺めるだけなのだけれども、それでも「へぇ~」とか「おぉ~」とか思うのだから、勉強させていただいていることには間違いない。

先日、例によって眺めていると、「え?」と思うような代物が流れてきた。楷書とも行書とも言えない文字で、縦置きの半紙に横書きで書かれた「自分だけノーマスク岸田」の文字。え?

政治や規制のもとで芸術と表現とがあるとき、さまざまなものが作り出されてきた。ショスタコーヴィチの交響曲第5番など最たるものの一つのように思われる。

しかしけれども、ここまで露骨に我が国の内閣総理大臣に対する物言いを、他所の人の言葉 (というよりもTwitterでトレンド入りしただけの言葉) で表すというのは、その人は何を伝えたかったのか? 誰に伝えたかったのか? そもそも、その人の思いはどのようなものなのか? あるいはそれに美しさはあるのか。

借り物で表されたモノで、何も伝わらないのであればまだ良いのかもしれない。芸術以前のことを考えさせられた。