空手道

道場訓

空手歴

全空連所属団体時代

小学5年生だった1999年夏、全日本空手道連盟 (以下、全空連) 所属団体に入会。松濤館流の会派であった。週1回の稽古がしばらく続く。当時は「空手教室」といった意味合いも強かったが、週2回 (月・木) の稽古となったり、人数も増えてきたりし、皆が道衣を買うこととなり、それと共に内部的には「空手道場」というかたちに、また、級もそれまでの実力から鑑みて、7級 (だったと思う) が与えられ、初めて身に着けた空手衣に橙帯を結ぶことになった。

北海道少年少女空手道錬成大会 (道空連主催) には、小学6年 (2001年) で組手に出場し1回戦敗退。同じく中学1年 (2002年) では形では初戦敗退、組手は1回戦は相手棄権で不戦勝、2回戦ではなんと準優勝選手にあたり上段回し蹴り (一本) を二度食らい敗退。

その間に昇級審査を二度受け、7級から5級に (青帯)、5級から3級に (緑帯) と昇級している。

稽古に行くのが億劫だったことも何度かあったが、稽古終了後の、あの独特の「さっぱりとした感じ」が堪らずに、続けていた。

何よりも、当時は道場生の親御さんの見学も多数あり、また一般の道場生もありで、全盛期は20名から30名くらいいただろうか。とにかく賑やかで、それがまた楽しかったのである。

人数が人数ということもあり、納会といえば、いつも稽古に使わせもらっている会館の和室2部屋の襖を取り払って、大人数で盛り上がった。時には、車で数時間の温泉へ、皆で出掛けて盛大に納会をしたこともあった。鏡開きも、お汁粉に豚汁にと用意して頂きこれも大変盛り上がった。それ以外にも、同学年の人達と、その親達とが集まって、不定期に (大人たちは) 飲んだり (子供達も) 騒いだりしていた。

松濤翁二十訓 (松濤翁二十箇条)」の一つめに「空手道は礼に始まり礼に終る事を忘るな」とある。思い返せば、そういった納会、鏡開き、宴会といった場所場所で、礼儀作法を自ずから学んで (学ぶ機会を頂いて) いたのかもしれない。

厳しい練習ではあった。檄が飛ぶことも数知れず、喉が涸れて痛くなるほど声したことも数知れず、あるいは、あまりにも礼儀がなっていない道場生などは、T先生に帯を持たれ、壁際に投げられたりもしていた (いまこんな指導をしたら完璧にアウトである)。また、道場生側の言動・行動の如何で「ご立腹」させてしまい、T先生が来られない、ということも二度くらいあったと記憶している。

それでも続けられたのは、級が上がるごとに様々に練習内容が変わっていったり、下の学年の子達が入ってきたり、あるいは、厳しい中でも和気藹々とした雰囲気があったからだと思う。

別れは突然にして訪れる。中学1年 (2002年) の3月、T先生が神奈川へ引越されるとのことであった。その後は日本空手協会稚内支部へと級はそのままで移籍となったが、数年間のあいだに慣れてしまった指導方法と、新たに指導にあたられたM先生のそれとの相違にどうしても相容れず、4月か5月で退会したと記憶している。

17年間の空白期間

否が応でも時は流れゆく。空手の思い出を引きずりながら、吹奏楽部で青春時代を送り、通信制高校を経て、大学に行くとそこに「空手道部」あり。それでも決心に至らなかったのは、あの厳しい稽古が「理想」として頭に残っていたからかもしれない。結局、大学時代は数年間一般の吹奏楽団で打楽器をやったり、IT系のコミュニティに所属したりしていた。

地元に戻れば所属している生涯学習団体の書道・短歌を始めたが、どうしても「家の外」で趣味をしたかった。一度、M先生の空手の見学にお邪魔したが、あまりの小学生の多さに対し、自分の心がそれを受け容れられず、たった二度の見学をしただけで「ごめんなさい」の一言を電話することになった。

のちに地元の吹奏楽団に所属はしたが、様々な理由があって、2年足らずで辞めてしまった。2019年9月になっていた。

その年に結婚もし、かと思えば12月に高血圧症の診断もあり、体を動かした方がより良いという状況下に置かれた私は、申し訳なさと恥ずかしさとを感じつつ、M先生に再び見学・体験のお願いの電話をすることになる。二つ返事で「大歓迎です」と即答され、驚いてしまった。

日本空手協会へ

2020年1月17日、日本空手協会 (以下、協会、またはJKAと略記) 稚内支部のM先生が行なっていう稽古場所へ伺った。仕事の都合でギリギリの時間にお邪魔することとなってしまった。しかも、2, 3年前に一度見学してお断りしている身。申し訳なさしかなく、へっぴり腰で某所体育館の扉を開くことになってしまった。

道衣は (小中学生時代のは家族に既に捨てられてしまっていて) ないのでジャージに着替え、数分走ったり準備運動などしたあと、なんと、M先生より紹介されることになってしまった!

「今日はね、みんなに紹介したい人がいまーす。みんなの大先輩です!」 ちょっと恥ずかしかった。20年前や17年前からの年月の流れを考えると、あるいは、小学生の子達と私 (30歳) との年齢差を考えると、「大先輩」なのかもしれない。

「茶帯までいったんでしたっけ?」「当時全空連所属の団体で3級で緑帯でしたから……協会だと茶帯ですね」こりゃまた恥ずかしい。下手なことできないなぁとか余計なことが頭をよぎる。 とはいえ、協会の審査基準でいえば、3級といったら平安五段を終え、基本一本組手も終えた段階。だいたい平安初段からして頭から引っ張り出さきゃいけない私が、そう紹介されて良いものなのかどうか……まったく恐縮するばかりであった。

年初めの稽古だったということもあり、移動基本を行ない、形など平安初段から五段までと鉄騎初段 (鉄騎初段はみっちりやっていたから覚えていたけども、あとはほとんど記憶になし!)、加えて選定形から (茶帯黒帯の子供達からのリクエストで!) 燕飛と観空大 (こりゃまったく覚えてない!)、そして基本組手、果てには自由組手を……。

使っていなかった体のあちこちの筋肉痛は一日二日遅れてやってきて、帰宅するときはやっぱりへろへろだったんだけど、終わった後のあのさっぱりとした何とも言えない感じは当時とまったく変わらずで、不思議な感覚ではあった。

そして翌週も、稽古に通い続ける自分がいた。

昇級歴

全日本空手道連盟所属団体 (松濤館流)

日本空手協会