人格完成に努むること

日頃、稽古の終わりの時間が閉館時間のギリギリとなり、なかなか「道場訓」を唱和することが少ないのが現状ですが、思い返せば私が小中学生の頃(約二十年前です)に空手道を習っていた頃も、年に一度唱和することがあるかどうか、というような有様でしたので、これは今も昔も変らないような気がしています。

それでも、いわゆる松濤館流では、「道場訓」や「五條訓」といわれるこれは、当流では世界各国に共通のものとして現在も継承されています。

まったくの私見ですが、この道場訓には、一切の強制がなく、むしろ《包み込んでくれる優しさ》があるような気がしてなりません。

最近は様々なインターネット上の記事を見ていると「○○すべきこと○選」というタイトルが散見されます。なんとなく、「○○すべき」という言葉には強制とか理想とか、そんな印象を抱いてしまいがちです。

松濤館流の道場訓は、五つのすべてが「○○すること」という言葉が並んでいます。

私が感じるところは、決してこれらは強制されるものではなく、「こうしていきましょうね」「こう心掛けていきましょうね」というメッセージというような印象があります。理想ではあるけれど、そうすること自体が難しいのだから、せめて心掛けて過ごしていこう……と。

もっとも「人格の完成」は、一生をかけても達成できるかすらわからないものです。

日々の稽古でも、普段の学校生活や社会生活でも、苦難の連続で、その度に「ああ、自分はまだまだだな」と感じたとき、『人格完成に努めること』の一言を思い出すと「もうちょっと頑張ってみようかな」と思うことが何度もあります。

あくまでも日本空手協会は「武道空手」「空手道」であって、その「道」を歩んでいくうえで、道場訓は道標のような存在かもしれません。

そもそも私たちは、空手道を通じて精神修養(心の修行)に努めています。審査や試合の結果に一喜一憂せずに、それを通じて「心」を成長させていくのは何歳になっても大切なことだと確信しています。経験年数や段や級が違っても、めざすところは同じような気がします。