本日の稽古 (20221003) あるいは稽古と試合について

先月来、中学生の子から「大会出たいんですけど……」と幾度となく相談を受けていた。この「けど」がネックで、「出たいんですけど、学校の試験が近くて……」と続く。いつの時代も悩みの種は同じらしい。

私が伝えられるのは経験談ばかりで、問答というよりは一人語りに近かった。最後に決めるのは彼女自身なのだが、ほとんど結論が出てるのが何とも居心地が悪い。

「○○さん、どう思いますか?」
「決めるのは●●だけどさぁ。まぁ、稽古があってもなくても、勉強する人は勉強するし、勉強しない人はしないだろうなぁ。……私達の頃は、稽古に毎回来ている子のほうが、どっちかというと成績がよかったなぁ」
「でも試合出ても1回戦で負ける気がする」
「それは実際に出てみないとわからんなぁ。私が中1のときに連盟 (道空連) の大会に出たときは、相手の選手が棄権して、『赤、棄権! 白の勝ち!』ってなったもんなぁ」

別の日。
「ところで親はなんて言ってんのさ?」
「二人共 (姉妹) 出て欲しいって言ってます」
「ああ、それじゃあもうね、もし万が一そのあと学校の試験でちょっと成績落ちたとしても、少なくとも親は叱ってこないだろうから」
「そうですか?」
「うん、大丈夫だ。あとは自分で決めなさいね」

そのうちこっちが落ち着かなくなってくる。
「●●さぁ、気持ちは定まったかい」
「あの、だいたいは……」
「まぁ、別に勝ちたいから出たいとかっていうわけじゃないんだべさ」
「はい」
「自分の心の問題だからね、そこをわかっていれば十分です。何の問題もない」

そしていよいよ今日。
「どうすんのさ」
「出ます」
「おお、そうか。先生には言ったか?」
「今日言います」

大会に出て試合をするということ自体、ある意味、非日常的というか、何というか……。コートの中には相手と自分がいて、勝てば嬉しいし、負ければ悔しい。でも、周りから見るとそれはただの勝ち負けでしかなくて。
1試合1分とか2分とかのための厳しい稽古があり、勝ったときの嬉しさと負けたときの悔しさがあり、他所から見るとただの勝ち負けでも、自分にとっては大事だったりして。
出場選手が10人だろうと50人だろうと100人だろうと、そのうち半数が1回戦で負けて、また半数が2回戦で負けて……優勝するのはたったの1人。
こんな “こと" を経験できるのって、人生で何度あるだろう?

自分が小学生・中学生のときのことを思い出してみると、やっぱり、最初に「大会出ます!」と言うまでのハードルがとてつもなく大きかった。その年は何の勝手もわからずただ緊張したままで大会が終わった。あれは小学6年生の夏。
翌年、1回戦で負けてコートで悔し涙を流した中学1年生の初夏。脱水になるくらいの稽古を重ねて、相手が棄権で2回戦に進むも、二度、上段廻蹴りが当たりあっという間に負けた、中1の夏。

……要するに、一度大会に出る決心をするのが一つの “試練" で、その大会が終わったあと「さぁこれからどうしよう」と考えるのが、いま一つの “試練" のように思い返される。

悩みに悩んで、考え抜いて、いよいよ「大会に出る」という一大決心をした彼女は間違いなく顔つきが違っていた。「でも」とか「けど」とかという後ろ向きの言葉が出てしまう自分自身に勝ったというこの “一本" の前進は、きっと彼女にとって大きな成長であることに間違いない。

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指導員19:30着までのあいだ、その場基本・形 自主練習。その後グループにわかれ、私は茶帯・黒帯の子たちと一緒に、平安初段〜五段・鉄騎初段 各1回ずつと、抜塞大、慈恩。初心者の子が帰ったあと、全員で慈恩、抜塞大。

(本日8名)